昭和44年9月25日  朝の御理解



  真の道の心得「神国の人に産まれて神と皇上との大恩を知らぬこと」え~「神国の人に産まれて神と皇上との大恩を知らぬこと」と、これは別に神様の世界と、のでなくて、神様があのお造りになった世界と、と頂くべきでしょうね、神様がお造りになった世界、ですからそれはどういうことかと言うと、人間の世界ということになります、ね、神様のお造りになった世界に生を受け、とそこはならどこかと言うと、人間、人間が住んでおる、いわゆる地球上です、これは星の世界でもなからなければ、月の世界でもないわけですね、人間の住んでおる世界、ね、ですから神の恩と、「神と皇上との大恩を知らぬこと」とこうおっしゃるように、第一に、そういう造り主とでも申しましょうかね、創造主とでも申しましょうか、の御恩を忘れてはならないことは勿論であります、同時に、例えば国々でそこの、例えば王様とか、ね、日本では天皇陛下とか、ね、または大統領と言うても良いかもしれません、ね、そういう、う~、世界を造ったり治めたりして下さる人達の恩を忘れてはならないとこう言うことである、かみとは皇上と書いてありますから、これは天皇陛下という、のですけれども、そりゃ天皇陛下という意味だけではない、ね、と思うんです。
  「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」と、これは、あ~まあ仏教的な一つの表現が、実はそうではないでしょうけれども、そういう風に表現してありますよね、例えば、大地のことを(用土?)と汚れた所というような、あ~、風に説いてありますから、結局「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」という意味は、やっぱ、あ~最近頂いております神の大恩ということだと、ね、神の大恩を知れば、そこにはすでに天の恩も地の恩も分かってくる、確かに用土は用土です、ね、汚い汚物を、おぉえぇ、確かに大地という所は汚い所なんです、けれども金光教の信心でいきますとその汚い所もまた大事にしなければならないというのが金光様の御信心ですね、忌み嫌うという意味ではない、その汚い所も大地があるからこそ、お~、おかげを受けられるんだとして、大地を大事にすると、だからある意味で汚れた地と言やぁ汚れた地と言いますでしょうね、所と言い、大地ということは、ね、けれどもそれをこう、何か、え~、それに対するこの恩ということを、あまり説かなかったんですね、教祖が特にそこのご自身がお百姓でありますから、ね、大地の御恩徳ということを非常に痛感された、え~、けれども神の大恩を分かれば、だから自ずと分かることですよね。
  「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」と、勿論これは、あの、お~、親のことですけれど、ここんところを間違いないようにしなけりゃいけませんですね、もう絶対にね、金光様の御信心して、あの~親に、親に孝行するという、親に喜んでもらいたいの一念の強い人でなからなければ、おかげも徳も受けられませんです、これは、例えば真の道の心得の中に、ちゃんとほせてあってありますようにね、親を軽視したり、ね、親を粗末にしたり、いわゆる親の存在を忘れたり、いわゆる「幼少の時を忘れて」と、「親に不孝のこと」もうこれはねおかげになりません、もうこれではもう、もう絶対におかげは受けられない、だから、親孝行の念の強い人が信心すると必ずおかげを受けます、私共でも、あ~、信心にいよいよ打ち込んだのは、本当にまあ両親が達者な内に両親に安心してもらいたいの一念が、私の一心に信心に打ち込んだ動機でしたから、ですからここで間違うてならないことはね、親と名が付きゃみんな親といったようなことを申しますことは間違いです、親と名が付きゃみんなが親、例えば親先生といったようなのはね、だいたい妥当じゃないです、親先生は言うなら粗末にしたってかまわんです、粗末にしたってかまわんっちいうことはないけれどもですね、親のようにその、親先生を粗末にしたからと言うて罰かぶる者はおりゃせんです、けれども肉親の親を大事にすりゃ罰かぶります、ちょっと極端な表現ですけれども、どうぞ間違いないように頂いて下さいね、親と名が付きゃ親といったようなもんじゃないと言うこと、ここでは、教祖様が言うておられること、ね、義理の親とか、教えの親とか、ね、沢山親というもんを持ち出しますけれども、本当はだいたいは親ということを、持ち出すっ、その妥当じゃないです、適当じゃないです、けれども表現のしようがないから言う、親先生と親と間違えちゃならん、私が、皆さんが「親先生親先生」とこうおっしゃるけれども、だいたい言うたら、まあちっとなんとか、名前を変えたが本当ですけど、言葉がないです日本語には、まあまちっとこう偉くなると大先生とか親先生とかと言うようになりますけれどね、まあこっちは大先生でもなかもんだから、ね、ですから、その親先生ば大事にせんならんとなことはないですよ、「親先生は馬鹿」っち言うたっちゃかまわんです、けれども親だけは大事になさらにゃいかんです、ね、正しに、ね、例えば、私は幸せになる元を教えて下さった人は、親先生というのら言わば、そういう意味合いでですね、尊敬の念とか、ね、え~、その恩に例えば報いるとかと、言わば、この、これはまた別ですから、そこ辺のところを間違えちゃならん、親先生を粗末にして良いということじゃないですけれども、ただここにはね、「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」とおっしゃる、これは肉親の親のこと、そんなら主人の親は、もう大事にせんでも良いかと言うとそうじゃないですよ、ね、夫婦は一心同体ですから、ね、もうすでに一心っ、一つ、一つのものですから、家内の親、主人の親、こりゃもう親ですね、ここんとこは非常に間違いやすいところですから一つ、特に、ね、もう本気で、もう親孝行というのはね、親に喜んでもらうごつしてたまらんっちいう心が親孝行です、親に安心、安心してもらわにゃ相すまんという心が親孝行です、なでたりさすったりすることだけじゃない、小遣いを上げることだけじゃない、ね。
  先日から末永さんが、お父さんからの手紙に対して、え~言うなら反発してる、ね、「けれどもそれはお父さん、本当の親孝行したいからなんです」と最後に言うておりますようにね、それなんです、「本当に喜んでもらいたい、本当に安心してもらいたいからなんです」とこう、「今言う事を聞かんようですけれども、どうぞその時期を待って下さい」とこういうのです、ね、その一念が強うなれば必ずお徳を受けます。
  「真の道におりながら真の道を踏まぬこと」と、ね、この真の道というのがなかなか難しいんですね実際、ここではそれを、え~、え~、ね、神様が私共に明示して下さる、明らかに示して下さる、日、それを私は成り行きとこう言うとります、自然の成り行きとこう、ね、その成り行きを大事にしながら進んで行くことを、私は真の道だと思うております、まあここは説明は沢山、まだしなければなりませんけれども、だいたいそのように思います、良いですか、信心の心得ですから、どうでもそこんところば腹入れとかなきゃいけんとですよ、そして、ね、例えば、神訓、神誡、御理解、ね、いわゆる信心を深めて行かなければいけない。
  勿論次ぎの「口に真を語りつつ、心に真のなきこと」といったようなことは、いけませんですね、「あの人もどうしたことを言う人だろうか」と、「ポンポン自分の思うたごつ言うちから」と、いうなのは非常にこれは、これは神乍らですから、そんな人は返っておかげ頂きますですね、自分の思うたごと言う、心の中のことをそのまま言われる、どんなに美しい言葉をつられ、つられておってもです、ね、本当に、心もないことを言うておるよう人があります、出けた人もにこれは多いです、ね、普通で言う信心は別ですよ、出けた人、ぎょうおくとか作法とかというような例えばお茶の先生なんかに多いこげんとが、心もないことを(?)ごたる風にお茶飲みきってもなってる、ね、そして自分も、お腹の中の思うたことをポンポン言う人を、言わば作法も知らない、いわゆる、もう信心の世界とね人間の世界、え~、というのは大変な違いであることを一つ知らにゃいけませんです、ね、ですからと言うて、決してですね、なら自分がお腹にあることをポンポン言うということがです、真をそのまま出しておるから良いことですけれども、なら真、心の中に思うておることそのことがです、誰が見ても聞いても素晴らしいということが思われるようになることが信心なんです、ね、だから赤裸々であることは大変神様に通いますけれども、ね、それだけではいけないことが分かります、そこを改まるとこう申します、心が改まってまいりますと、言うことも人が喜ぶようなことを、風の立たないようなことを、円満な、言わば(  ?  )が出来るようになります、嘘じゃありません、本当の心の中を、そういう風に見て行くことが出来るようになる、そこんところに信心の精進があるわけですね。
  「わが身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと」と、ね、これは私は親切ということだと思うんですけれどもね、まあ一口で言えば、だからと言ってこれはあの人情とは違うです、ね、「わが身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと」と、自分が苦労したと、自分が金なら金に大変不自由したことが、あるから金に不自由しておる人達のを見ると、本当に自分の事のように思える、それからなら自分が金を持っとるからあなたに恵んであげましょうというようなことでは決してないから間違えんようにしとかにゃいけません、ね、どうぞ、ね、うんなら金に難儀をしておられる、金に難儀をせんですむような信心をなさったり、ね、そういう心の状態、あり方になられることを、本当に親切、親が子を思うような心でそれを思うこと、またはそこをそういう風に導くことが、それなんです、自分が金に大変貧乏した時代に、金に難儀をした、それこそ至悪至行の病よりも、お~貧より辛いものはないというところは、この身を持って合点した、だからここに貧乏しておる人に、お金を恵なんていうようなことじゃないって、信心の道はそうじゃないから、どうぞ信心の道ですからね、普通のあの、道徳的なものじゃないのです、信心の道というのは、間違いなしにいかんとこですよね、ここを翌々間違えるところです、ね、からと言うてその、貸しちゃやらんとか遣っちゃならんということじゃないから、その辺ところを間違いがないようにしなきゃいけません、根本的なそういう、ね、信心の道と、道徳的なものとはもう全然違うこと。
  「腹立てば心の鏡のくもること」これはもう、おかげを頂いていく、信心をさして頂く者としてはもう絶対なもんじゃなきゃらにゃいけません、ね、勿論道理の上から言うても、鏡がくもれば影が映じないように、ですからもう、腹なんか、腹はたっ、腹は立たんですむところをつ極めていきゃにゃいけません、良う腹が立てる人がありますね、プリプリプリプリ、もう腹が立ってたまらんっち言う、何を見ても聞いても腹が立つ、これではねもう絶対におかげは受けられません、神様が下さろうとするようなおかげですよ、ね、信心さして頂くようになると、何時の間にか全然腹立てんですむ自分になっておることにびっくりするくらいに信心が、だから進めて行かにゃいけんことが分かります、そうなれるです信心の道というのは、ね、道徳的なものじゃない、腹の立つとばグゥっと押さえるといったようなもんじゃ決してないです、ここも間違えんようにしにゃいけません。
  「わが心の角でわが身を打つこと」これも同じことですね、自分の心で自分を苦しめる、必ず自分の、お~円満を欠いでおる時、にこれがあるのですから、ね、自分で自分の心をもう締め付けられるように苦しいという時がありますよね、時には自分の心の角が取れてない時ですから、ここんところを心得られたら、おかげですぐに治ります、ここが気が付きますと。
  「人の不行状を見てわが身の不行状になること」ね、連鎖反応ですね、人が悪い事しよると自分も悪い事しよるには馬鹿らしいごとを、もう本当にこういう人がと思うような人の話しを聞いたことがある、終戦直後に、その何か大豆かなんかを沢山扱ったんだそうですね、ある、ある町で、取らん者が損っち言うてから一人が取り出したけんで皆が取った、連鎖反応です、ね、人の不行状を見て自分の不行状になってしまう、ね、「誰でんこんくらいな事しよるとじゃけんこっちもせにゃ」といったような、ね、信心さして頂く者はこうじゃなかんならんと教えられたら、そこは、ね、誰がどうであろうが、自分は自分で、いわゆる真の道を歩かなきゃいけんのです。
  「物事に時節を待たず苦をすること」もうこれなんかはもう、絶対お道の信心、お道の信心っち言うと可笑しいですけども、お道の信心さして頂いておる者はもう本当に、いよいよ自分のものにしてしまわなければいけませんね、「時節を待たず苦をすること」、ね、だからその成り行きを大事にしながら、時期を待つのです、それをもう、一掃取りにそこん、に、その片づけてしまいたい、思うたり、ね、一時でも例えば自分の思うようにしたり、時節を待ちません、これはもうここの、で信心の稽古をなさっておられる方達は良う分かっておることだけれども、実際はなかなか行の上に現すことが出けんでおる人が沢山ありますね。
  夕べ、この修行しております公子さんが、あ~お知らせ頂いたおりますのに、この耳納山に、ね、耳納山に、丁度あの襟帯橋というのがあちらにありますね、(あぶい?)ですか、の橋が掛かっておるという、だから合楽の人達は非常に御理解を良く頂き込んでおりますからですね、その非常に詳しくなってるんです、耳納山ということは耳を納めると書いちゃる、ね、襟帯橋ということは素晴らしいお取り次ぎの橋ていう意味だと思うんです、日々お取り次ぎを頂いておるということ、ね、それはどういう事かと言うと、耳だけが肥えておるっちいうことですよ、お話しを聞く耳を、耳が肥えておる、言うなら耳だけが極楽行っておるといったような感じです、それがずっ、大きいです合楽に人達は、耳だけが極楽行っとる、そういうお知らせを頂いております、ね、本当に神様にお縋りして成り行きを大事にしながら時節を待ちゃぁ絶対のもう最高のおかげを受けられるとですよ、「はぁ娘ば嫁なんかさんならん」っち言うて、店でも宣伝してから、もう写真配りちらけちから、誰でんかんでんだらだらするもんじゃけん、ろくな事に(?)と、ね、はぁ本当に親として、なら子供が売り残っておるならやっぱり思わんことはないはずですけれども、自然の時期はじぃ~っと成り行きを大事にしながら、それを祈って行く見て行くというような生き方になれば、これはもう一事が万事にそうなんですから、どうも心掛けとかにゃいかんとこです。
  「まめな時家業をおろそかにし物毎におごること」ね、ここも良く間違いやすいところですから、どうぞ覚えとかにゃいけんですね、「まめな時家業をおろそかにして物毎におごること」ということをですね、ただ家業さえしときゃ良かといったような、ね、これはだいたいその、金光様の信心にゃ無精者じゃ出けんです、ね、「お参りしとく方が死後すぎるか楽なけん」っち言うてから参ってくるごたる信者はなんにんならんです、ね、家業を大事にしていく、ね、まめな時に、健康な時寝たりころだりばっかりし、しとったんじゃです、もう絶対、いわゆる金光様の御信心ではないのですから、絶対本当のおかげは頂けるはずはありません、私達がおかげ頂きよりじゃったはずだと思う、私の家はだいたい無精者筋ですもんね、大坪の家は、ね、ですからそれを信心で克服して行く、ね、そこを辛抱出来んところを辛抱しぬかして頂くところからです、段々おかげ頂いてきたように思います、ね、お参りしとさえっ、お参りさえしときゃ良かっちいうこっちゃない、けれどもです、ね、信心がより大事なものであるということが分かって信心に打ち込むなら別です、そこにはね、なら自分、「氏子が神の用をたせば、神の用は氏子がたしてやる」とおっしゃるようなもうお徳の世界はそこから開けてくるですからね、この辺はどうぞ間違えんようにせにゃいけません、勿論物毎におこることなどということは、これはいけません、いつか久富さんから聞かせて頂いたんですけれども、土居の村に、もうそれこそ分限者がおられたんですね、まだ久富さん達が若い頃までおられたらしいです、まあ大変な分限者だったそうです、勿論下男女中は沢山おる、ね、その裏表におられたそうですから、その女中が、あの~、久富さんの所に馬がおるから、馬の(はんに?)にですね、その、お~いやぁ、洗い、ね、食器を洗ったりなんかりいたしましょう、その中に色んな、醤油やら御飯の、お~、まあ悪うなったやつやらがこう捨ててあるわけ、でそれを馬にやってくれというわけで、そのそこにいつも笑っとったとこう言われる、女中さんが言いにくるそうです「早よもらいに来て下さい、早よ取りにきて下さい、でないともう中にもうとにかく」びっくりするも、ほんなこてですね、炊き立てんごたる御飯がいっぱい入っとるっちいう、もう冷やとる御飯なですね、もう誰でん食ぶるごつなかわけですたい、(笑)、(?)やら(?)行くとですね、下駄履いたまま(?)の中ばこうやって歩きござったげな、そこの息子さんが、ね、そういう様を見てです、とてもこげなことじゃ長うこの家は続くまいと、まあ若い子供心に思いよったっちいう話を聞いたことがありますよ、食物がおろそかにされる所では、絶対おかげ頂きませんよ、ね、物毎おごってまいりますとそういうことになるです、「こげなものは食べられるか」と言うて、ポ~ンとその捨てるのなら、と言うてかすって食べるような心になっちゃおかげんならんともとおっしゃるから、ならこういう辺も大変難しいところですから、良く心得なきゃなならないと思うのです、ね、悪うなったっつを食べちから腹んせいたしたりならどんこんいかんですもんね、返って御無礼になる、だから始めから大事にしなきゃいかん、お醤油一使わして頂くでも、もうね、もうかけ過ぎらんように始めからちゃんと心掛けて、ものを炊くでもそうです、神様に祈りに祈り願いに願って、ね、ね沢山ここあたりの場合なんかは、沢山のつが一遍に、さあ十人分も二十人分、さあ場合には三十人も五十人もの食事をしなきゃならんことがありますから、なかなかどうしてきちっとっちいうわけにはいかんの、そこを祈りに祈るところを信心としていくところからです、「もう本当に親先生おかげ頂いてからきち~っとでした」っちいうようなおかげを頂いておりますでしょうが、そういうことが大事、ね、物毎におごって、おごるとが食べ物だけのことじゃありませんけれどもまいきれい。
 「信心する人の真の信心なきこと」と、「信心する人の真の信心なきこと」、ね只今私が申し、申してまいりましたように、信心はしよるけれども真の信心をしないというのは、只今私が簡単に説明してまいりましたような、ところに立脚して、ね、それを信心の基本として、信心を拝むということでなからなければ、ね、信心する人の真の信心が出来んとこう、勿論真の信心が出来なければ、真のおかげが頂けれるはずもありませんよね、もうだいたい、いわゆる御神誡、真の道の心得というのを、まあ簡単に今日は説きました、ね、けれどもこれは分かり、あの、簡単なようであって間違えやすいところを今日は指摘してお話させて頂いたが。
 ★今日私、御神前に御祈念中に頂きますことがね、え~、(一本刀おどりおいり?)というお芝居がありますよね、有名なお芝居、長谷川真の原作ですか、(一本刀おどいおいり?)というのがあります、(しんに?)、ね、いわゆる相撲を志して、え~上方に登ったんですけれども、とうとう辛抱しきれずに、もうすてんぽてんになって自分の家に帰る着いて、もう食べる物もにもことかうような状態の時にね、水商売の女から、あ~金を恵まれ簪を、を、あの貰いますよねお芝居をご覧になった方は分かるでしょう、そして、ね、「お相撲さんもう一遍、その、お~、師匠のところに帰って、もう一遍立派な相撲になりなさい」っち元気付けられるわけですね、そしてまた志をひるがえして、それことになりますけれども、ね、色んな事情があってとうとう相撲にはなれずに、え~遊び人になるわけです、ね、そしてその、お~ありゃ細かった、あ~茂平って言うたですかね、もう遊び人として押しもされませんような、腕も出来、出来もんも出来、といったようなあ~人物になっておるわけです、そしてその助けられたオツタと言うその、女の事が忘れられずに帰ってくると、オツタ達夫婦が親子が大変難儀な立場に立っておるところを自分が一点に引き受けてですね、その親子をおとしてやって、そしてあの、助けるというような筋なんです、一番最後のラストシーンのところに、申しますセールの中にですね、これがね駒形や茂平のね、その、しがめ、え~土俵入りでございますといったようなところがあります、あそこの最後のラストシーン、今日御神前でその、そこんところを頂くんですよ、ね、いわゆるあの一宿一飯というようなことを申しますね、言わば遊び人が義理とか人情とかを大事にします、もう金光様の御信心は決して義理人情じゃない、私が始めに申しましたようにね、私はこの親を大事にするということを、親と名が付きゃどげなん親でん大事にせにゃんというのじゃないといったような意味のことを言うたのはですね、義理人情じゃないということを言いたかったんです、義理人情じゃないって、ね、しかもね私が今日御心眼に頂きますのはその、駒形や茂平が誰がやってるかと言うと、あの何とか55号っていうのがありましょうがテレビでやってます、あれにあのお~坂上次郎って言うのがおりましょう一人か、二人の中に一人、ね、金、金ちゃんじゃない方です、坂上次郎を演ずるところの駒形や茂平なんです、あんなの見た事もない、私が今日御心眼に拝むのはそれだった、そして私が思わして頂いたことはです、坂上ということは、ね、坂の上にあるということ、いわゆる苦労をしておるということ、次郎ということは一郎じゃないということ、二番目だということ、義理とか人情とかね、仁義といったようなこともね、決して人間の道の上においては悪いということじゃないけれども、これは第二儀的なものだということ、第二儀的なものだということ、第一義はなんと言うても、真の道にということなんです、ね、そのなら真の道というのは、信心さしてもらわなければ分からないこと、そこには義理、義理とか人情とかね、仁義、人偏に二という字が書いてあるね、仁という字、一番最後にこの仁という字をもう大きく頂きましてね、信心はこの仁、仁じゃないということ、ね、私共が、宗教というのが、とにかくその(?)近いもんですから、品の持経に、持経ね、持経の災いされとることが沢山あることです、または仏教なんかの、もう仏教そのものが持経にその言わば犯されとるなんところがあるんです、持経というのはどこまでも、人間の頭で作った、人間の~、まあ最高の道ということになりましょうけれども、いわゆる信心の道とは全然違うですだから、いわゆる道徳じゃないて、お道の信心は、まあもっと言うならば超道徳なんです金光様の御信心というのは、道徳以上の道徳なんです、ね、その、それを体得して行くということが、真の道を体得して行くことで、それを行じていくことが真の道を行じていくことなんです、ね、つまらん義理やら人情やらで、ね、仁義とかといったようなことでです、たった一宿一飯一遍お世話になったばっかりで、命まで捨てんならんちそげなん馬鹿な話があるもんですか、ね、それがお芝居やら映画ではです、そりゃなかなかお面が頂戴のところで良かところでしょうけれどもです、ね、人間の実際の生活の上においてはこんな馬鹿らしい話はない、ただ忘れてならないのは、ね、「親に不孝のこと」とおっしゃるこれはもう、これはもう絶対のもの、皆さんが親不孝をしようと言う者はおりますまいばってんね、本当に親に喜んでもらわにゃ、安心してもらわにゃ、もうそれこそ末永さんじゃないけれども、ね、本当の安心をして頂くための喜んで頂くための、自分のあり方ということに、方向が、自分の生き方が向いておるかどうかということを、確かめてね、撫でたり、親ば撫でたりさすったりすることだけが親孝行じゃない、ただ親が、親の求めにあると、安易に応ずることだけじゃないって、これが本当だと思うたらやっぱ親には、親にも逆らなわなければならん、けれどもそれは本当な親孝行がしたいばっかりですからというものでなからなきゃいけないことは勿論、ね。
  私はただ最後のそこのところを皆さんに今日は分かって頂くために、いわゆる御神誡を全部簡単に説明いたしましたですね、そこんところをですね、特に今日のあの、御神誡の説明はですね、あの非常に間違いやすいところを今日は特に指摘してお話ししたつもりですけれどね。
                                                                         どうぞ。


入力者:誠輝